インスピレーションは受け取りに行こう

目次
第1章 パソコンに向かってばかりではいけない
第2章 「石ころが転がった」というセンテンス
第3章  色々な表現に触れよう

第1章 パソコンに向かってばかりではいけない

web小説を書く者にとっては、閲覧数や”応援”などが兎に角気になる。特に、書き初めて間もないという人は、数字の何もかもが劣って見え、ウェブを漁り投稿時間を工夫してみたり(8時ちょうどに更新すると同じく8時更新に設定している人がいるので早く流れてしまうから数分後にしろ等)更新予約をしたつもりなのにちまちまとサイトを覗いてしまったりする。かくいう私もそうだった。

はっきり言って、それは止めた方がいい。難しいことはよくわかるが、それでは物語はちんけなウェブシステム上の数字のためにあるということになってしまうではないか。

初めはどんな理由だっていい。「素人に書けるんだから私だって……」という正直執筆を甘く見過ぎだろうという動機で執筆を始めた人もいる。それでも、書き続けるうちに、自分なりの哲学というものができてくるはずである。

例えば、小説投稿サイト大手の「小説家になろう」などでは、一世を風靡する「お決まりのネタ」(ウェブ作家はテンプレということが多い)の小説だけがブレイクすることがある。異世界転生型と呼ばれる一群がその例である。

そのテンプレに迎合するのか、はたまた独自の路線を貫くのか。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもない。とにもかくにもテンプレを踏まなければ見てもらえないのであれば、テンプレの決まり事を踏襲しながらも言いたいことを器用に盛り込み己の願いを達成させるというのも、テンプレなどというものが自分に合わないから自分のやり方を貫くというのも、よい。

前者は言いたいことを器用に盛り込む能力が、後者はコアなファンを唸らせられる文章力が必要になるだろう。

なにが言いたいかといえば、哲学さえ持っていれば、数字というものは参考程度になりはすれ、それに従属するなどという本末転倒な事態は避けられるはずである。

富士山を登るには、まず富士山に辿りつかなければならない。我々が小説を届けるのは「読者」である。そこを認識することで、やっと「執筆」という山の麓まで来られるのである。

第2章「石ころが転がった」というセンテンス

さて小説を書こうとなったとする。そこで立ちふさがる第一関門である。

「ネタがない」

1つ小説を完結させてしまっては、次なにを書いたらいいのかわからない。そんなことはないだろうか。

そんなときには、とりあえず散歩である。なにも思いつかないというときは心がインプットを欲していると思った方がいい。パソコンから離れ、外に出てみよう。そこは晴れていただろうか、雨だっただろうか。ここで大事なのは、己の感情を抜いて事前に相対することである。

「気づけば朝で朝焼けがやけに赤い」「室内の明かりに慣れ過ぎてそとの日差しに目が眩んだ」「雨だったので私は傘をさした」こんな風に、とりあえず情景を描写していく。

そこで、ふと立ち止まるのである。キャラクターが朝焼けに心を動かされるのはどんなときだろうか。なぜ傘をさしてまでキャラクターは外に出たのだろうか。大事なのは、自分が描写したことを、自分ではなく小説のキャラクター(この時点では架空)の動作や情景として考えることである。

そこで、キャラクターの輪郭がふと湧き上がってくる。それは例えば「片思いをずっと受けてきた鈍感な女子高生が、朝焼けに男の子の頬の染まりを思い出しやっと彼の思いに気づく」かもしれないし、「長らく剣を捨てていた元剣士がなんらかのきっかけで血しぶきの赤を思い出しまた修羅の道に戻る」のかもしれない。

あるいは、石ころを蹴飛ばしてしまったとする。その石ころが物語の始まりだったとしたら、その後の文章はどう続けるだろうか。その蹴飛ばした石ころは片思いの相手にぶつかるのかもしれないし、その石ころは魔王が封印されていた甕の欠片で、蹴飛ばしたことで魔王が覚醒してしまうかもしれない。この場合は世界観の輪郭を作ったと言っていい。

いかようにも、物語のネタは作れる。そのためにも、書くという作業を中断することも時には重要である。

第3章 色々な表現に触れよう

第2章で言及したやり口が通じなかった人は、その前段階が不十分だったのだろう。

「石ころが転がった」という映像から、何通りもの展開を創造できるためには、色々なジャンルの表現形式に通じていなければならない。

この世には表現の方法が何通りもある。何も文章表現に限る必要はない。映画には実写やアニメ、特撮があるし、ドラマにも色々な種類がある。イラストや絵画、彫刻なんていうにも表現の1つである。ゲームだってそうだ。

どうしても相いれないというものでない限り、見聞きする表現は多い方がいい。石ころから恋愛小説を書くにしろRPGを書くにしろ、枝は何通りもあった方がいい。作品の質と表現の方法はまた別の話である。表現方法に優劣があるのではなく、各々の作品に優劣があるのであって、表現方法での好き嫌いはできるだけなくすべきである。

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